マコンデ彫刻体験記 オルタナティブツアー代表取締役 岩井洋文
わずか1泊2日の滞在ですが、2010年12月にタンザニアの彫刻家マティアス・ナンポカさん宅にホームステイし、マコンデ彫刻の手ほどきを受けてきました。これはそのときの記録です。
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■マティアス家の家族構成(年齢は2010年12月時点)
お父さん マティアス・ナンポカ
お母さん スーザン・ステファノ
スティーブン(男)12歳 (一緒に住んでいる親戚の子、ロビンの兄)
ロビン(女)10歳 (一緒に住んでいる親戚の子、スティーブンの妹)
エバリスト(男)10歳 (マティアス家の長男)
ヨハナ(男)5歳(マティアス家の次男)
ムングバシ(男)3歳(マティアス家の三男)
前列左から:近所の子、ロビン、ムングバシ、エバリスト、ヨハナ
エバリストの後ろの紺のポロシャツ:スティーブン
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ダルエスサラームから車で1時間半ほど走っただろうか、幹線道路から脇道に入り、村の中へとさらに走ると、マティアスさん宅にたどりついた。彫刻家のお父さん、マティアス・ナンポカさんとその家族の方々が出迎えてくれた。覚えたてのスワヒリ語で挨拶をし、同行してくださったJATA TOURSの方の通訳で、マティアスさんと話をする。
マティアスさん:「今まで彫刻をしたことはあるか」
私:「ない」(小学校の図工でちょっぴりやったことはあるのだが)
マティアスさん:「絵は描くのか」
私:「描かない」
マティアスさん:「どんなものが彫りたいのか」
私:「マティアスさんが彫っているようなシェタニ(精霊)が彫りたい」
ちょっと気まずい沈黙の後、思わず苦笑いをもらしたマティアスさん。やはり無茶な挑戦なのだろうかと、一抹の不安がよぎる。マティアスさんは、腕はないがやる気だけはある生徒を「時間がないから」と促し、さっそく実習がはじまる。
裏庭にある大きなタマリンドの木陰にむしろを敷き、そこに足を伸ばして座る。渡された黒檀の木は、縦・横10cm、高さ40cmほどのほぼ直方体で、手にするとずっしりと重い。確実に水に沈むだろう。拳固でカンカンとたたいてみると、容赦なく堅い。これを彫るのかと思うと、唯一あるはずであったやる気も少しこそぎ取られる。
(タマリンドの木陰の作業場)
(彫る前の黒檀)
マティアスさんは黒檀を手に、ためつすがめつ眺める。自分の彫りたいシェタニを考えるためではなく、木に内在しているシェタニを感じ取るためだ。「彫像は既に石の中にあった、自分はただそれを掘り出したにすぎない」と言った、ミケランジェロのそれである。
両方の足裏で黒檀を挟んで固定し、左手に鑿、右手に木槌を持つ。鑿は平鑿と丸鑿があり、サイズは小学校で使った彫刻刀の2倍ほど。木槌はハンマーのような形状ではなく、握りの部分をやや細くしたただの丸い棒であった。
まずマティアスさんが手本をみせてくれる。それをまねて私も木槌を鑿に振り下ろす。力が足りなかったのか、刃先は黒檀をすこし傷づけただけで、簡単にはね返されてしまった。木槌で鑿を握っている自分の手を打ってしまうのではないかと、へっぴり腰で叩いたのだが、そんな小手先は通用しない。覚悟を決めて打ち下ろす。それでもすこし抉ることができただけであった。
鑿をあてる場所や角度をいちいちマティアスさんに指導しもらいながら、木槌を振るう。その頃には連れてきてくださったJATA TOURSの方もダルエスサラームに帰り、通訳はいない。しかし言葉は要らない。ただ、振るう。ときどき己の手を打ちすえながら(かなり痛い)、ただひたすら木槌を振るう。
(マティアスさんが見守る中、木槌で鑿を叩く私)
腰掛けているだけならタマリンドの木陰は風通しもよく、それなりに涼しいのだが、力一杯彫っていると汗が噴き出してくる。文字通りに肩で息をし、フーフーハーハーと呼吸を乱しながら彫る。輪郭らしきものが見えはじめてきてはいるが、最終形はまったく見えない。師匠はどんなシェタニをこの木に見たのだろうか。そんな興味を感じる余裕も、手の痛みや疲労で徐々に失っていく。
(彫りかけのシェタニ)
夕方頃、ついに私はギブアップし、休憩しようと軟弱な提案をする。師匠は、明日帰るなら時間はあまりないのだがなあ、という風情を見せながらも、許してくれる。私は師匠宅に着くなり彫刻をはじめたので、まだ村の様子も見ていなかった。ぶらぶらと散歩をしたかったので、その意思を伝えることにした。
私の英語もカタコトであるが、マティアスさんも英語はほとんど話さない。私のスワヒリ語は一夜漬けであるので、カタコトの域にも到底及ばない。だが用意周到な私は、ちゃんとこんなときのためのスワヒリ語を仕入れてきていたのだ。
私は、お前なかなかやるなあ、という反応をちょっぴり期待しながら、そのスワヒリ語をマティアス家の皆さんの前で言った。
「ツキベア」
しかし、みなキョトンとした顔を見せるだけで、こちらが期待した反応はまったく返ってこない。発音が悪かったのかもしれないと、「ツキベーア」とか「ツキーベア」などと言ってみるが、みなの顔は困惑度をますばかり。しょうがないので、この辺をぶらぶら歩いてきます、という意味を込めた身振り手振りもまじえる。
すると唯一の女の子、ロビンの眼が少し大きく開かれ、ぼそりとつぶやいた。
「テンベア・・・・・」
ああ、そうだ、ツキベアじゃなくてテンベアだった、そう言って手を叩くと、マティアス一家は「こいつアホや!」とドッと沸く。どこでどう「テン」が「ツキ」にすり替わってしまったのか、未だに皆目わからない。
マティアスさんが、「私の家の中で写真を撮るのはいいが、外では撮らないでくれ」という意味のことを、手振りをまじえて言う。わかったと答え、ぶらぶらと歩き出す。しかし土地勘のない私のことが心配になったのか、後からマティアスさんも追いかけてきた。さらにその後、エバリストがノートとペンを手に、走って来た。これから私塾で勉強するらしい。あまりやる気の感じられない駆け足で、私たちを追い越していった。村の家々は、集まっているのか散らばっているのかよくわからない微妙な間隔で建っている。幹線道路とは逆の方向に20分ほどまっすぐ歩いてみたが、村の終わりらしき地点には到達しなかった。大きな村なのか小さな村なのか、よくわからないままUターンする。帰り道にマティアスさんの親戚のおばさんが住む家にも寄せてもらい、あいさつをする。そこでもいろいろな彫刻作品を見せていただき、そしてまた師匠宅に戻る。
もう少し彫るかと手振りで示す、マティアスさん。疲労もすこし回復したため、素直に肯く。その頃には私が来たときには留守にしていた、一番年上のお兄ちゃんスティーブンも戻ってきていた。
散歩前に彫っていたときも同様なのだが、5人の子どもたち(+近所の子どもたち)が、タマリンドの木陰にかわるがわる現れては、私のまずい仕事ぶりをひやかしていく。ムングバシとヨハナの小さい弟二人組は、家の手伝いもないのか、始終私たちのまわりでじゃれている。一番年上のスティーブンは、マティアスさんに学校のノートを見せている。算数の計算が並び、ほぼすべて赤ペンで「レ」印が付けられていた。全部バツか、とそのときはちょっとあきれたが、タンザニアで「レ」は正解の意味で、「×」印が不正解の意味と後で教えてもらった。とんだ勘違いをしてごめんね、スティーブン。
(左からヨハナ、ムングパシ)
日が傾きはじめた頃、やっと本日の彫刻が終了となる。私は手や腰が痛み、疲労困憊の体たらく。最後のほうは、これは何の苦行だ、コンチクショウと心の中で悪態をつき、鑿を叩いていた。こんなときにはビールを飲まなきゃやっていられない。バケツ一杯の水で汗を流し、マティアスさんと飲みに行く。散歩のときに、マティアスさんに後でビール飲もうね、と言っておいたのだ。
家から歩いて100mほどの青空居酒屋で、痛む手でグラスを持ち乾杯をする。ビールが喉をくだり、体中に染みわたっていく感覚。強ばった身体が、解きほぐされていくこの心地よさ。月明かりの下、涼しい風が吹き抜けていく。つい先ほどまで「コンチクショウ」とほざいていたにも関わらず、私は急速にやさしい気持ちになっていった。今ならどんなことでもゆるせそうだ。
マティアスさんが、炭火で焼いた牛肉を注文する。塩を振りかけライムを絞っただけと思われるシンプルな味付けだが、これがまたビールに合う。マティアスさんと私はお互いカタコト以下のボキャブラリーで話をする。お互いの年齢、そして子どものことなど。マティアスさんは39歳で、私より二つ年上だ。私も日本から持ってきた自分の3人の子どもの写真を見せたりする。親バカで恥ずかしいが、ビールがうまいので何もかもゆるされるのだ。
ほろ酔い程度で切り上げ、子どもたちのお土産に瓶入りのソフトドリンクも買っていく。マティアス家のお母さんが遅い夕食を準備してくれている間、子どもたちと遊ぶ。エバリストが、家の中からフリスビーを取りだしてきた。私一人と子ども全員(近所の子も含む)が向き合い、投げ合う。私が放るフリスビーを子ども全員が奪い合い、奪い取った子が私に投げ返す、その繰り返し。
エバリストは悪童ぶりを発揮し、私が投げたフリスビーをときには強引に横取りしてまで独占しようとする。わざとエバリストから遠いところにフリスビーを投げるのだが、人を押し分けて奪い取るエバリスト。なんとも憎たらしい。私が股の間からフリスビーを投げる技を見せると、すぐにまねしようとするエバリスト。しかしまねできない。ざまあみろ、と大人げなく溜飲を下げる。
(左から:スティーブン、エバリスト、近所の子、ムングバシ、ロビン)
(前列左から:ヨハナ、近所の子、エバリスト、ムングバシ 後列:ロビン)
夜ごはんは、牛肉を煮込んだシチュー、煮豆、菜っ葉をおかずに、お米のごはんをいただいた。書くのを忘れていたが、昼食は同じおかずをウガリといっしょに食べた。
重労働後でお腹ぺこぺこのため、何でもおいしく食べていたとは思う。だがそれを差し引いても、食事は本当においしかった。今後マティアスさん家に彫刻を学びにくる方は、彫刻はもちろん食事も期待していい。
食事後、庭をぶらぶらしてから用意していただいた個室の寝室に引っ込む。途中、マティアスさんに歯を磨くかと訊かれたが、首を振った。マティアスさんはすこし眉をひそめる。私は不潔なのだ。家に電気はないので、懐中電灯で暗い部屋を照らす。たまたま時期がよかったのか年中なのかはよくわからないが、蚊はまったく見なかった。青空居酒屋で飲んでいるときも刺されなかった。だが念のため用心をして、蚊取り線香を焚いて寝る。
早く就寝したため、日の出前には眼がさめた。外がすこし明るみはじめた頃を見はからい、庭に出る。ちょうどマティアスさん一家も起き出した頃で、お母さんが庭を掃き、スティーブンは木炭に火をつけている。ロビンは洗い物をし、エバリストは台所の床を掃いている。私は木の根に腰掛け、手伝いをしている子どもたちや庭をかけまわるニワトリなどを眺める。ムングバシとヨハナも、私の横に来て腰掛ける。何を話すわけでもないのだが、無言でより添いぼうっと座っているのは、なんとも心地よい時間だった。朝食は、チャパティとチャイをいただいた。完璧な朝食だった。これから続く苦行に向け、英気をやしなう。
タマリンドの木陰に行き、またひたすらに彫る。子どもたちもクリスマス休暇中で学校はない。エバリストは私の横で鑿を使って地面を掘っている。刃が欠けるだろうと思うのだが、マティアスさんも注意しない。近所の子どもも群がってきて、本日もタマリンドの木陰は大盛況。
彫刻の方はというと、シェタニの風貌が漠然と姿を現しはじめている。後は細くすべきところを細くしたり、眼や歯など細かいところも彫り出していく作業だ。技術的に難しいところはマティアスさんの助けを大いに借りながら、黙々と彫る。手に取って見る分には、ずっしりとした重量感や堅さがたのもしい黒檀だが、いざ彫るとなると、そのむやみに堅い材質を呪いたくなってくる。さくさく彫れる木にしてくれればいいのにコンチクショウと、また責任転嫁のコンチクショウがふつふつと心に湧いてくる。
日が高くなりはじめ、汗が噴き出してくる。最後のほうは、もうかなりヤケになっていた。これでもかこれでもかと槌を振り下ろす。もういい、もうこれでいい、未完成でもいい、十分やった、これで終わりでいい、少々みっともない作品でもいい、だからもうやめよ、その手を止めてマティアスさん(師匠が鑿をあてる角度を指導するため絶えず手を動かしている)、ほらなかなか味のあるシェタニが出てきたやん、まだなん、まだ完成ちゃうの?、なんでオレがこんなことせなアカンねん、自ら望んでやってんねやろうって?、ああそうか、そうですか、コンチクショウ、コンチクショウ!!
お天道様が一番高くなったころだろうか、やっと作業が終わった。正確に言えばまだ完成ではなく、これからヤスリをかけなくてはいけないのだが、それは日本に帰ってからやることになっている。彫り終わったシェタニを手にもつ。師匠の作品とは雲泥の差であるのはよくわかっているが、その出来映えは悪くなかった。やっと苦行から解放された安堵感とともに、助けを借りまくったとはいえどもやり遂げた達成感がじんわりと満ちてきて、厚顔無恥なコンチクショウを溶かしていく。ああ、早く誰かにこの作品を自慢してみたい。そのときは、ほとんど独力で仕上げたと大ボラ吹いてやろう。そんな悪巧みも心に浮かぶ。
(彫り終えたシェタニ)
バケツの水を一杯もらい、汗を流す。家に水道はなく、子どもたちが少し離れた、水を引いている家から買い、よいしょよいしょと運んできてくれた貴重な水だ。感謝の気持ちも素直に湧いてくる。
庭でマティアス家の集合写真を撮らせていただいたりしながら、辞去するまでの時間を過ごす。そのとき、マティアスさんがこう言ってくれた。
「イワイ、次はいつ来るんだ」
社交辞令でもあるのはわかっているが、そう言ってもらえるのはうれしかった。でもそのとき私の心に浮かんだのは、もうここに来ることは二度とないのではないだろうか、という寂しい気持ちだった。また来たいとは思う。でもそう簡単にはいかないほど、日本は遠い。なんと答えたらいいだろうか、と考える。「近いうちにまた来ます」とか、「いつかまた来たいです」などと答えるのが、常識的な答えなのだとは思う。でも、不誠実な答えのようにも思われた。かといって、心に去来した正直な気持ちそのままに答えるのも憚られた。
八方ふさがりかと思いきや、用意周到な私は、ちゃんと適切なスワヒリ語を仕入れてきていたのだ。有名なことわざであるらしい、別れにふさわしい言葉を。ちょっともったいぶった間をおき、おもむろに私は口をひらく。
“Milima haikutani, lakini binadamu hukutana.”
(山と山は出会わないが、人と人は出会う)
今度は間違いなく言えた。lakiniのあたりでマティアスさんの口元がほころび、binadamu hukutanaのところは、マティアスさんと私の声が重なった。お母さんや子どもたちの顔にも、やるねと笑顔が広がる。期待していた反応を見せてくれ、うれしかった。そして、すばらしい言葉のおかげで、必要以上に湿らず、潔いお別れができた。
マティアスさんと連れだって、村の小道を下り、幹線道路へと向かい歩いて行く。帰りはバスを乗り継いでダルエスサラームまでマティアスさんが送ってくれることになっていた。そのとき、マティアスさんの携帯電話が鳴った。お母さんからのようだ。
電話を切り、マティアスさんが身振りをまじえて私に言う。
「イワイ、Tシャツ忘れているみたいだぞ」
一人で走ってマティアス家に戻る。そしてクールな別れの後の、ちょっと照れくさい再会をはたし、Tシャツも持ってまた去っていく。恥ずかしかったが、それも人の愛嬌だろう。山はTシャツを忘れない。
あとがき
東日本大震災後の後日、JATA TOURSの方より、マティアスさんが日本のことを心配している、という心温まる伝言をいただきました。ありがとうございます。
東京電力福島第一原発事故により、原発の是非や電力全般に関する記事を目にする機会も増えています。そんなとき、よくマティアスさん宅に泊めていただいたことを思い出します。マティアスさんの家に電気はありませんでしたが、そのことが家族の幸せや不幸せに大きな影響をあたえているようには、私には見えませんでした。「原発を停止して電気が足りなくなったらどうする?」という心配をする向きもあるようですが、電力消費を減らせばいいだけです。そして、「たかが電気、たとえ我が家に電気がまったく来なくなってもかまわんぜ」と、マティアス家でほんの少し根性を叩きなおされた私は強がりを言っています。
(彫り終えた作品を手に、マティアスさんと私。ダルエスサームにて)
(火焔樹が咲く軒先で遊ぶ子どもたち。タンザニアでは火焔樹のことを「クリスマスツリー」というらしい。クリスマスの季節に咲くからとのこと。)